2.水澤心吾(一人芝居)・セッション
(俳優、心理トレーナー)
「決断 命のビザ 〜 SEMPO 杉原千畝物語 〜」
・杉原千畝(すぎはらちうね)・・第二次世界大戦時のリトアニア駐在の外交官
・ポーランドから逃げてきたユダヤ人約6,000人に日本通過ビザを独断発行
・現在ではその子孫が約10万人に達している
・その他
<杉原千畝・・第二次世界大戦時のリトアニア駐在の外交官>
杉原千畝は、第二次世界大戦中、日本の通過ビザを外務省の命令に反して発給しました。
当時ドイツ・ヒトラー率いるナチス・ドイツから迫害を受けていたポーランドのユダヤ人たちが、隣
国リトアニアに逃げてきたのです。杉原は「訓令順守」「人道的博愛主義」のはざまで悩み抜い
た末に決断し、約6,000人を救いました。
<ポーランドから逃げてきたユダヤ人約6,000人に日本通過ビザを独断発行>
〜パンフからの転載〜
リトアニアに赴任しておよそ一年たった1940年7月18日。千畝は見た。
日本領事館の前に集まった群衆の目を。
彼らは、ナチスに追われ、隣国ポーランドから命がけで逃げてきたユダヤ人であった。
ナチスによるユダヤ人への残虐な迫害はすでに始まっていたのだ。
ヨーロッパのどこにも逃げ場の無い彼らの要求は、
日本を通過して国外へ脱出するための通過ビザの発給であった。
群集は、百人、二百人、どんどん膨れ上がっていく。
これだけの人数にビザを出すことは、千畝の一存では決めることが出来ない。
「このままではこの人たちは殺されてしまう!何とか助けられないのか」
千畝は悩みに悩んだ。東京の外務省に問い合わせても、ビザの発給は許可されないだろう。
国に逆らえば、職を追われるかもしれない。
それどころか、ナチスに、命を狙われる可能性だってある。
自分だけではない。妻や幼い子供たちも。
だが、目の前の人々を見殺しにすることなんて出来ない!悩み抜いた末、
千畝は東京の外務省にビザ発給の是非を問う電報を打った。
しかし、「通過ビザと言えども発給あいならぬ」これが答えだった。
当時の日本は、日独伊三国同盟締結への道をまっしぐらに進んでいるといった状況であり、
友好国ドイツに敵対する行為を、許可出来ない事情もあった。
「もう一度だけ電報を打とう」諦めることが出来ずにこの緊迫した状況を訴えた。
ジリジリしながら、返事を待っていた千畝が、ふと外のユダヤ人たりを眺めると、
痩せこけた小さな子供が、父親に手を引かれじっとこちらを見ている。
その子供が突然倒れた。その子供と自分の子供が重なった。
「あの子もこの子も同じ子供。あの子を見殺しになんか出来ない!」
漸く届いた本省からの返答は「否」であった。
千畝の心は決まった。
「もう私一人でやるしかないのだ」
〜 転載終了 〜
<現在ではその子孫が約10万人に達している>
終戦後、杉原千畝は職を失った。現在千畝は亡くなっているが、妻がイスラエルに招待され
当時救われた人々の子孫から感謝を述べられている。その子孫の数は約10万人に達している。
<その他>
上記イスラエル訪問の様子を映像で紹介
---コメント---
珍しい企画でしたが、正直感動しました。水澤心吾さんの迫真せまる演技のせいもあってでし
ょうか。こんな日本人が当時の日本にいたなんて知りませんでした。後の生活にも大変苦労さ
れたようですが、結果的に自らと家族を犠牲にしたその行動・決断には頭が下がります。この
ような人物がいたというのは日本人としての誇りではないでしょうか。是非ご家族には政府か
ら何らかの表彰(勲章、経済的支援等)があってほしいものです。そんな気にさせてくれる一人
芝居でした。
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船井幸雄人間クラブ全国大会2010レポート
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